1970年代日本のガリ版文化
(4:51 話し手=文書館市民研究員 阿南満昭, 聞き手=文書館スタッフ)
現在のようにインターネットや SNS がない当時、最も迅速に思想や意見を世間に示す方法の一つがガリ版(謄写版、謄写印刷)でした。1894年堀井新治郎親子によって改良・発明されたガリ版は、明治・大正・昭和期を通じて日本の印刷を支えました。戦後、言論が解放され民衆運動が回復したとき、知識人による発表、労働・農民運動、サークル紙、官公庁の公示などにおいてガリ版の需要が高まります。1960年第一次安保闘争ではビラが大量に印刷・配布され、1960年代後半〜70年代初めの学園闘争の広がりの中では学生たちによって用いられました。そして1970年代後半〜80年にかけて、市民運動や住民運動のミニコミや新聞としてガリ版が刷られます[田村・志村 2002(1985) :48-59]。
1950〜1980年代日本においてガリ版は人々に親しまれていましたが、その後印刷は輪転機や複写機に取って替わられます。
水俣におけるビラ合戦(1971)でもガリ版刷りを含むビラが地元新聞の折り込みチラシとして配布され、多くの市民が手に取りました。 川本輝夫らは水俣工場前にとどまらず、東京のチッソ本社前や建物内でも座りこみを決行し、街頭では水俣から出てきた自主交渉派の患者や家族や支援者がテントで刷ったビラが配布されました。
「ワラ半紙に書きつける手刷り手配りのガリビラとはなんであろう。はしきれの紙を破って書きつけたものを、名前も知らぬビラ係の、恥ずかしそうな若者に渡しながらそう思う。おそらく、若者や学生たちの間にゆきかっているらしいビラ式コミュニケーションというものは、夭折を余儀なくされている思想が行なうはかなき写本のたぐいではあるまいか。」
(『天の魚』10頁 1972年1月都民集会案内ビラに寄せた文章)
石牟礼道子は「水俣病を告発する会」として「名前あって名なきものたち」(『天の魚』8頁)の自主交渉に随行し、路上にて質の悪い紙にことばを書き記しました。それらのことばは「ビラ係」に刷られ、道行く人々に配られました。ビラに込められた文字は文学としてのことばというより、闘争の現場で必要とされ生まれたことばや表現、あるいはコミュニケーションだったといえるでしょう。
<参考文献>
『ガリ版文化史 手づくりメディアの物語』田中紀雄・志村章子編 新宿書房 2002(1985)
【水俣病関係資料】オンライン展
闘争のことば 石牟礼道子 苦海浄土第三部『天の魚』から読むビラ合戦