解説:自主交渉とは
「自主交渉」という用語は水俣病患者家族がチッソに謝罪と賠償を求める要求行動を指す、患者自身が用いた用語である。「自主」という言葉は「偉い人の介入はいらない」という意味で、第3者(市長、県知事、国会議員その他の「エラい」人たち)による仲介や調停を拒否するという意思表示である。これら第3者が加害者と被害者の中に入るとき、必ず強い方の味方をする。患者家族は自らの経験によってこの事実を知った。
1956(昭和31)年チッソ付属病院から熊本県水俣保健所に「原因不明の未知の病気が発生している」と届け出た。当時の日本トップクラスの医者も初めて見る病気であり、誰も診断がつかなかった。そのため当時水俣病は「奇病」と言われた。
「奇病」の原因は地元の熊本大学医学部が追求した。1959(昭和34)年、熊大医学部水俣病研究班は、水俣湾産の魚介類がメチル水銀に汚染されており、その魚介類を多食した住民らが中枢神経を障害されて起こる病気とした。メチル水銀化合物は火山等の特殊な場合以外自然界には存在しない。水俣には無機水銀を使用して肥料の硫安を作るチッソ水俣工場があり、工場廃水を水俣湾に放出している。工場が奇病の原因である疑いはきわめて強かったが、硫安製造から魚介類の有毒化、患者発症までのメカニズムは解明することができなかった。
患者家族(水俣病患者家庭互助会)はチッソに補償を要求したが、チッソは「工場排水と水俣病との因果関係は明らかになっていない」として要求に応じなかった。そして1959(昭和34)年「重病に苦しむ住民と同じ地域の会社として見るに忍びない」として、わずかばかりの「お見舞い」=「見舞金」を出しただけだった。一方で、この見舞金の契約書には「将来原因が工場と判明した場合でも新たな損害賠償の請求はしない」という1項を入れていた。責任があろうがなかろうが補償はしない、見舞金ですべてチャラ!というわけである。このときチッソと患者との間を仲介したのが、熊本県知事、水俣市長、熊本日日新聞社長といった熊本県政財界のお偉方だった。「エラい」人たちが弱い立場にある患者の味方をすることはない、という現実をこのとき患者家族は思い知った。
1968(昭和43)年、政府は水俣病をチッソ水俣工場の廃水に起因する公害病だと認定した。1959年の見舞金はチッソの責任を果たすための補償金(慰謝料)ではなかったので、患者家族はチッソに責任を前提とした補償を要求した。
対するチッソは、因果関係が科学的に100%証明されない限り補償責任はないとして、厚生省に調停を依頼。厚生省は委員会の出す「結論には異議なく従う」という条件付きで、調停機関として「補償処理委員会」を設置した。
患者家族は第3者の介入はこりごりというグループと、長いものには巻かれろというグループに二分された。 前者は第3者を入れないチッソとの直接交渉を要求し、これを自ら「自主交渉」と呼んだ。このグループはチッソが交渉を拒否するに及んで訴訟を起こす(訴訟派)。後者は補償処理委員会の結論に従った(一任派)。みんな病気と貧困にさいなまれていた。一刻も早い救済がほしかったのである。一任派は足下を見透かされていた。補償処理委員会の結論は1959年見舞金契約の再現に終わった。
水俣病の最初の訴訟(第一次訴訟)は、水俣病患者家庭互助会訴訟派29世帯によって1969年に提起され、1973年患者側勝訴の判決があり、1審で確定した。一任派はさっそく判決と補償処理委の金額との差額をチッソに要求してこれを手に入れた。
一方公害認定を機に、川本輝夫による未認定患者発掘の動きが始まっていた。訴訟派、一任派の患者以外にも不知火海一円に身体の異常を訴え、そのため経済的にも困窮している多くの住民がいる。川本はその事実を知っていた。そして症状がある住民宅を一軒一軒探し当てて水俣病の認定申請を勧め、チッソから生活費、医療費をもらおうと勧めていた。そして1970年、川本らは熊本・鹿児島両県の認定申請棄却処分を不服とし、厚生省に行政不服審査請求を行った。
1971年8月、環境庁が川本らが提起した認定棄却処分に対する行政不服審査請求で、県の処分取り消しの裁決を行った。さらに「有機水銀の経口摂取の影響が認められる場合は認定する」とした環境事務次官通知「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法の認定について」が出され、これ以降認定された人々は「新認定患者」と呼ばれた。
川本もまた、1971年に水俣病患者として認定された。これらの患者と家族はやはり第3者を入れずにチッソに補償を要求した。この川本らの行動が、いわゆる「自主交渉」を指している。「訴訟派」も当初は自主交渉を要求したのだが、チッソは頑として応じなかった。チッソが交渉に応じなければ患者家族はそれ以上の打つ手がなく、いわばやむを得ず訴訟に踏み切っていた。 しかし川本らの交渉要求は世論が大きく反応した。チッソが交渉に応じないなら、実力で本社を占拠し、社長室に乗り込んで社長と直々に交渉しようという方向に川本らは進んでいった。また、そのような実力行使を支える支援者が続々と登場するような時代背景があった。
川本らの自主交渉が続いていた1973(昭和48)年水俣病訴訟の判決が出された。患者側の全面勝訴という内容だったが、訴訟派患者家族は判決のあった熊本地方裁判所からそのまま上京し川本らと合流、「東京交渉団」を結成し自主交渉を続け、同年補償の協定書が締結され自主交渉は終了した。
訴訟派患者が自主交渉に合流したのは、判決による慰謝料だけでは数年で使い切ってしまうからだった。生活費、医療費、介護費、温泉治療費、交通費その他の必要経費など裁判で請求できない諸費用をチッソに補償させるためであった。 訴訟で勝ち取れるのは慰謝料のみである。自主交渉によってはじめて患者の生活、生存が生涯にわたってある程度保証されることになった。そして現在この補償内容は自主交渉派、訴訟派に限らず一任派をはじめとするすべての患者に適用されている。最初の訴訟派29世帯という小さな力で始まった自主交渉は、補償協定書という全患者に及ぶ大きな結果をもたらして終わったのである。
(文書館市民研究員 阿南満昭)
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