【水俣病関連資料】オンライン展
闘争のことば 石牟礼道子 苦海浄土第三部『天の魚』から読むビラ合戦
イントロダクション
本展では、1969年熊本市発足「水俣病を告発する会」として自らもビラ作成に関わっていた石牟礼道子著『天の魚』(1974 筑摩書房)を道標に、同作に登場・関係するビラ等資料から、告発する会と「ビラ合戦」(1971年)に関するデジタル画像を紹介します。資料は本館所蔵の水俣病研究会資料より選び出し、時系列に配置しています。
『苦海浄土』第3部にあたる『天の魚』は、1971年10月に水俣病患者と認定された「水俣病新認定患者」川本輝夫ら自主交渉派と共に上京した石牟礼のリアルタイムな行動と視線から描かれました。「ビラ合戦」については同作第5章「塩の日録」を中心に記述されています。
石牟礼がその記述の中に行政文書や診断書といったいわゆる資料・記録を転記したことは知られているとおりですが(参考:『苦海浄土 わが水俣病』1969)、『天の魚』では自主交渉という闘争のなかで患者家族や石牟礼自身がどのようにことばを発し、またどのようにことばを受け止めたか、その日々の記録としてビラの文言(=本展で着目することばによる闘争の過程)が転記されています。本展で取り上げたビラを見ていくと、患者たちの動きに対していかに水俣の「一般市民」や諸団体が大きく反応したかがわかります。
チッソとの「あいたいの」補償交渉を望むものの叶わず、患者家族や支援者にはビラということばで意思や考えを伝えるか、「座りこみ」という行為しか残されていませんでした [資料 No.14]。当時現場に随行した石牟礼の記述や、「告発する会」だった渡辺京二 [資料No.1 起草・ガリ版作成] の著作引用から、当時の水俣の情勢と行き交ったことばの意味を読み解いていけるのではと考えています。
1968年、水俣病は政府(厚生省)により、チッソ株式会社水俣工場から排出されたメチル水銀化合物によって引き起こされた公害病として認定されました。1957年に患者と家族で結成された水俣病患者家庭互助会は、当時としても低額であり、かつ将来的にチッソの責任が確定したとしても補償はしないという内容が盛り込まれたチッソとの「見舞金契約」(1959)に調印していました。しかし、1968年の公害病認定とチッソが原因企業だと公的に認められたことを機に、患者補償の問題が再び持ち上がります。なお、見舞金契約は1973年原告(患者側)が勝訴した水俣病第1次訴訟判決で、公序良俗に反するため無効とされました。
互助会は第3者の介入を拒否し、チッソに補償要求書を提出して直接の交渉を望みましたが、チッソは応じませんでした。そして1969年、厚生省は「水俣病補償処理委員会」を設置し調停を図ります。患者互助会は同委員会に補償問題処理を委ねる「一任派」と、あくまでチッソと直接交渉(自主交渉)するというグループに分かれました。しかしチッソは交渉に応じず、後者は訴訟提起により補償問題を解決する道を選びます(「訴訟派」)。水俣病市民会議や新日本窒素労働組合(第1組合)、水俣病研究会が裁判を支えました。
1959年にも、患者互助会は工場前に座りこみ補償を求めましたが、原因が分からないので補償には応じられないと拒否され見舞金契約を押し付けられました。
「68年にはこの苦い経験に学んで、まず自主交渉という路線が設定されたわけだが、チッソの拒否に会って行き詰ったまま、資本・行政が一体化した工作によってやがて一任派、訴訟派に分裂、一任派は補償処理委の調停によって見舞金契約の延長にすぎぬ低額 "補償" をのむことになった。しかし、自主交渉のねがいは訴訟提起の後もまだ生きつづけていた。71年4月に認定された・・・3家族は自主交渉を提起し、チッソと会談をもったが、打開のメドが立たぬまま訴訟に踏み切った。このように自主交渉は水俣病の歴史上しばしば試みられては挫折して来たわけであり、それを試みなかったものにとっても果せぬ夢であったという意味において、全水俣病患者の宿願であり、悲願であったのである」[渡辺 2017: 77]
1969年、川本輝夫は地域住民宅を自転車でまわって未認定患者(潜在患者)を発掘し、水俣病の認定申請を勧める動きを始めました。1970年、川本らは熊本・鹿児島両県の認定申請棄却処分を不服とし、厚生省に行政不服審査請求を行いました。
そして1971年8月、環境庁が熊本県と鹿児島県の認定審査会による棄却処分取消を裁決、「有機水銀の経口摂取の影響が認められる場合は認定する」とした環境庁事務次官通知「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法の認定について」を出しました。これを受けてようやく認定される人々が出てきました(新認定患者)。川本も同年10月に認定されます。
しかし、チッソは新認定患者との話し合いによる補償交渉をやはり拒否し、従来の認定と異なるため同じような補償はできず政府に任せたいとしました。人間同士の話し合いを拒否するチッソに対し、あくまで直接交渉を求めた川本をはじめとする新認定患者たちは、座りこみといった「チッソとのあいたいの直接補償交渉」[渡辺 2017: 76]を決行します(「自主交渉派」)。
自主交渉派の動きに対し、チッソの経済的・社会的恩恵を訴え患者の行いを批判する水俣市民や諸団体もそれまでになく大きく声を上げます。水俣という限られた地域に住む人々は、それぞれの存在をかけた闘争に入りました。
1971年10-11月頃、患者家族と支援者、それに対するチッソ擁護の保守派の訴えは新聞の折り込みチラシ等として一般市民に配られました。その素早く激しい応酬は「ビラ合戦」と呼ばれました。現在における、インターネットやSNSを利用した訴えの応酬や、世論形成に近かったといえるでしょう。資料No.2 「告発」第30号にも取り上げられている当時の様子について、岡本達明はこう書いています。
「業を煮やした認定患者たちは、1人1律 3000万円の補償を要求し水俣工場前に座り込んだ。告発する会、市民会議、第1組合が支援した。このときチッソの抱いた危機感は大変なものだった。何しろこれからどれだけの数の患者が認定されるかわからない。チッソは総力を挙げて圧殺に出た。市、市議会、第2組合、自民党らを総動員し、反患者の市民団体を結成、署名活動、連日のビラ攻撃、患者宅へのいやがらせ、チッソ擁護の市民大会 [資料 No. 20] の開催などを行った。この市民大会で浮池正基水俣市長は、『チッソを守るために全国の世論を敵に回してでも闘う』と述べた」[岡本 2015-4: 11]
各集団、各人がどのように動き発信したのか、ビラという大衆的手段でばらまかれたことばは、それを受け取った人々にどのような思いを抱かせたのか。本展で紹介する複数の立場から書かれたビラを読み、当時の水俣においてことばがどのような働きをしたのか、そしてどのようにせめぎ合っていたのか、ぜひ探ってみてください。
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